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ブログ記事投稿100記事記念「すべては東日本大震災から全てが始まった」

こんにちは、院長です。

今回の記事で100記事に到達しました。この区切りの投稿は当院の始まりと私が現在の道を目指したきっかけ、仕事ということに対しての考えなどをお話しさせて頂こうかと思います。もし今、仕事をしていることに迷いを感じていたり、何かをしたいけどきっかけがない、生きていることに対してなど、何かに迷っている方の少しでも道しるべになってくれれば幸いだと思います。東日本大震災のことにも軽く触れてしまいますので、被災地の方々、他地域の方々の中で気分が悪くなってしまった場合にはブログを閉じて休憩をなさって下さい。また、万が一気分を害された場合には心からお詫び申し上げます。


サウナへ行ったことが今に繋がった

当時私は家業である造園業を手伝いながら、夕方からほぼ深夜にかけて整体師を目指して下積みをしていました。元々学生時代、レスリングをやっていたからなのか、ケガや痛みとの戦いで、当時、腰部椎間板ヘルニアによる左脚の麻痺のような感覚に悩まされ、歩いていると膝がカクンッと折れてしまうくらい力が入らず、数ヶ月の間松葉杖で過ごしていたこともありました。大きな病院で検査と治療に通うこと数週間、一向に症状が変わらず別の病院へ。手術を宣告されましたが大会などもあり手術を拒否。その後は良いという評判を聞けばその治療院、指圧、鍼灸院、整体院、カイロプラクティックなど、数多く通いました。しかし結果はというと、その通った努力も虚しく、ほぼ変化なしという状況でした。

ここまでくると「一生付き合って行かなければならない症状なのかなぁ・・・。」という絶望感にも似た気持ちが自分自身を覆い、諦めの気持ちが日増しに大きくなって行くことも自分自身でわかっていました。

当時キャプテンをしていましたが、まず練習嫌いなキャプテンで有名で、それでいて変なプライドが大会に出れないかもしれないという状況を精一杯拒否しているという変に複雑な心境でした。レスリングの場合、大会に出場する為には規定の体重に調整しなければならない「減量」というものが付きまといます。私も例外ではなく、動けないのに体重は調整しなければならない。となると「サウナだ。」という安易な考えともとれる行動をしたのが後々の私にとってはとても良い結果を招きましたが、この時にはそんなことを知るよしもなかったのは言うまでもありません。

体重を落とそうとサウナに四つん這いになって入ってゆくと、中にはひとりの先客がおりました。しかも父親の知人。「おいおい、どうした?」と言われ、理由を話すと「サウナから出たら少し待ってろな。良い先生を紹介してやるから訪ねてみろ。」と言われ、名刺を一枚頂きました。翌日早速電話で予約をして治療院へ。中に入ってみると、なんとまぁとても無愛想な先生が・・・。と、こんなことを言うと先生が見ていたら多分怒られてしますが(^_^;)

と、結果的に数日で痛みやしびれが消失し、数週間後の大会には無事出場できました。本当に先生には感謝してもしきれないくらいの感謝と、理論や技術に対しての驚嘆が今でもあります。

一度は会社員、一度は職人、その後整体師へ

私が高校を卒業する時はまだギリギリでしたがバブル期で、求人がかなり豊富にある時代でした。部活も引退し、整体という分野を学ぶ為に施術院へ行って先生に話しを聞いたりしていましたが、あっさりと就職が決まってしまったので会社員として働き始めたのが私の社会人としての第一歩でした。その会社で2年間研修、その後転勤、さらに1年後、IT事業部へ。今から20年前のことなので、今ほどパソコンやネットが世の中に普及しておらず、パソコンを購入するにもノートパソコンで安くて25万円くらい、しかもハードディスク容量が500MB、記憶媒体はフロッピーディスク、OSはWindows3.1と、今現在ではあまり考えられない低スペック&高価格でした。その1年後くらいに携帯電話を持ちましたが、当時は1分も通話すると数百円という、今で言えばまるで詐欺にでもあっているようなそんな感じの金額でした。もちろんメールの機能もなければ電話帳のような相手の名前と番号を記憶しておくこともできず、今のスマートフォンと比べてしまうとあまりにも大きく違いすぎるものではありましたが、当時はどこにいても連絡をとることができるというだけで、とても便利で画期的なものでした。それまでは「ポケベル」を使用していましたが、ポケベルを知らない方はお父さんやお母さんに聞いてみて下さい(^◇^;)

転勤が多く、福島県郡山市に移動した時には妻と長女がおりましたが、長女が原因不明の高熱で入院をしてしまい、数日間40度を超える熱が出てしまっている状況でした。総合病院の先生方に聞いても、原因がよくわからないということで、おそらくは急な環境変化などによるストレス性のものではないでしょうかということでした。

実家の父親と母親、妻の父親と母親がお見舞いに来てくれましたが、その時に私の父親に「可哀想で見ていられないから戻って来い。」と言われ、妻とも話し合って実家へ戻る決意をしました。それまで勤めていた会社を退職し、実家の稼業である造園業を手伝うこととなり、サラリーマンだったそれまでの自分とは360度変わり、職人という仕事をすることになりましたが、やはり力仕事、腰痛や首の痛みに悩まされながら仕事をして数年、久々にレスリング時代に助けて頂いた先生のもとへと伺いました。中に入って見ると当時と変わらない室内の中に一枚の張り紙が。「整体師要請講座開講中」という文字が私の目に飛び込んできました。「先生、弟子を募集しているんですか?」と伺うと、「あぁしているよ。なに、自分は体をたくさんいじめて、いっぱい痛めて悩んできたんだから、そういう人間が先生になった方が良いんだぞ。やってみないか?きっとこの仕事の方が合っていると思うぞ。」と先生に言われました。

確かに一度は目指そうと思った道、でも昔と違って家族もいる環境、自分の一存では決められないと思い、「一度家族と相談してみます。」という返答を先生にして帰宅しましたが、自分の中ではすでにYESという答えは出ていましたねぇ(^_^;)

ということで朝7時30分or8時から、夕方5時くらいまで稼業、その後6時から先生の治療院で11時過ぎまで下積みというスケジュールをこなして行くことになりました。もちろん稼業は外仕事ですので、雨や天候不良となると休日になるので、その時はいとこや親戚を回って体を借りて練習してから夕方に下積みへという感じで行なっていましたが、いとこ、親戚、知人から、体が痛くなったり調子が悪くなると電話がくるようになり、稼業が終わる夕方から自宅へ出向いての施術を行い、疑問点などを先生に聞きにいくという流れになっていました。

開業したい旨を恩師の先生に伝えた

当時、恩師の治療院ではスタッフを多く抱えており、治療院とは別の他の施設内でも営業をされておりました。私は先生に地元で開業したいという旨を伝えましたが、当初は「他のスタッフのことも見て指導してもらいたいから残ってくれないか?」というお話しを頂きました。とてもありがたい言葉で、必要としてくれているというのは本当に嬉しいことでした。が、「自分も昔、体を痛めて色々なところに通って、結局どこでも治してもらえずにずっと悩んできた人間です。もしその時、地元に良い先生がいてくれれば遠くまで通うことはなかったと思いますが、残念ながらそんな先生には巡り会えませんでした。先生の技術は必ず自分の地元でも必要とされているはずですし、私自身、恩師の先生から学んだ技術には絶対の自信があります。だから地元で開業させて下さい。」という感じだったかなぁと思います。

恩師は少し考えたような感じでしたが、「そこまで考えているんであれば仕方ないか。技術は必ず人を呼んでくれる。それを信じて頑張ってみれば良い。」と背中を押してくれました。当時、冬季間の岩手県では、職人は仕事がなくなってしまいます。その為知人の紹介で高速道路の臨時職員として除雪作業を手伝っていました。臨時職員の拘束期間は、毎年クリスマスの12月25日から3月9日に夜勤をした場合には翌日10日の朝帰って終わるか、10日の朝に出勤して夕方5時まで仕事をして終わりになるかのどちらかで、私の場合は9日に夜勤をしていたので、翌日10日の朝8時でその年の臨時作業員は終了となりました。その足で現在お世話になっている「いこいの村岩手」へ準備に伺いました。

実は稼業を辞めて、高速道路の臨時職員も辞めて、何にも保証してくれるものなどない状態で開業をすると家族に話した時、まぁ全員に「猛反対」されました。でもきっとそれは当たり前のことなんだと思います。三女が産まれたばかりだったということもあるので、仕方のないことなんだろうなぁという感じでしたが、なかば強引に納得させるような感じになってしまいました(^◇^;)

運命の日、それは突然訪れた

初日の準備で足りない物が色々確認できたので、準備作業を夜の7時で切り上げて買い出しへと行きました。必要な物を買い揃え、翌日の朝からまた開業準備を行い、完了したのがお昼過ぎでした。その後昼食を摂り、看板を出したのが「2011年3月11日の13時30分」でした。

私が場所をお借りしている「いこいの村岩手」は日帰り温泉、温泉宿泊施設の為、たくさんのお客様で賑わっていました。もちろん地元なので近所のおじいちゃん、おばあちゃんや知り合いの方々も多く、「ここで開業するのか?頑張れよ。」と声をかけて頂き、頑張ろうと心に強く誓った気持ちが1時間16分後にあっさりと打ち砕かれてしまいました。2011年3月11日、午後14時46分、今まで聞いたことのないような音がスマートフォンから流れた為に、「んっ!?なんだろう!?」と思いスマートフォンの画面を見てみると、「宮城県沖で非常に強い地震が発生しました。今後の情報に注意して下さい。」という文章が。その時の私は「あぁ、宮城沖で地震があったんだ。」という程度の感じでスマートフォンを置いた瞬間強い揺れに襲われました。

入浴中のお客様は泡をつけたまま服を着て玄関へと走って行き、管内のエレベーターは停止し、電気もストップ。さらには玄関へと続く階段の防火扉が閉まってきたので、それを私が押さえていると、ペースメーカーを使っているお客様が男湯で動けなくなっているからということで助けに向かい、お客様が全て外に出たのを確認して私も外の駐車場へと向かいました。駐車場では無数の車が全く同じタイミングで同じ方向へ揺れているという異様な光景が広がり、駐車場に出てきた皆さんが騒然としていました。

そこでふと我に帰った時、父親と母親が今朝、庭の依頼があった現場を見てから久慈(岩手県沿岸)にでも行ってくるかと言って出かけたのを思い出し、妻と生後4ヶ月だった三女を家に残してきたことを思い出し、すぐに自宅へと戻りました。妻と三女は真冬の外に避難しており、すぐに車に乗せて長女の通っていた小学校へ。その後次女の保育所へと迎えに行きました。その時車載テレビをつけて見た時、その目に映る映像の状況をわかるまでかなり時間がかかりました。「これはなんの映像!?映画かなにか!?なんの番組をやっているの!?」という感じでしたが、画面右上だったと思いますが、そこには「LIVE」の文字が・・・。岩手県沿岸部の釜石市の映像でした。衝撃と言葉に言い表せない気持ちと、様々な感情が混じり合ったなんとも形容しがたい気持ちが自分を包んでいました。

とその時、父親から電話が。今思えばよく電話が繋がったなぁという感じですが、電話の内容は「そっちはなんともないか?大丈夫か?」というものでした。私からすれば、沿岸に行ってくると行って朝出かけた方が大変じゃないのか?と聞くと、結局時間がなくて行けなかったということでした。

管内点検終了後、改めて開業へ。しかし・・・

いこいの村岩手管内の点検が4日ほど行われ、点検が完了したということでいこいの村スタッフからお電話を頂き「そろそろ来て頂いて大丈夫ですよ。」ということでした。それから毎日、休むこともなくいこいの村へ通い、なるべく来て下さった方々に顔を覚えてもらおうと思っていました。が、誰も来ない。整体はもちろんお風呂にも。その時は色々な思いが脳裏を駆け巡っていましたが、「なんで、どうしてよりによってこんな時に開業なんてしたんだろう・・・。家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。なんとかしなければ・・・。」という気持ちが一番大きかったのかなぁと思います。

それから数日、数週間、誰も来ない日が続き、開業から18日目、初めて整体に来てくださった方がおりました。どうされたのかを伺うと、2週間くらい被災地で復興作業をされてきたということで、体が言うことを聞かないくらい調子が悪いということでした。その方は入浴後に整体へ来て頂きましたが、とても喜んで帰って頂いたことを今でも覚えています。

仕事をさせてもらえない辛さ

昔、会社員だった頃には仕事をすることが当たり前なことだと思って、何も考えないでというと誤解を招いてしまいますが、そこまで深く考えることもありませんでした。しかし開業してからの数ヶ月、「仕事をさせてもらえない辛さ」を味わい、これほどまでに仕事をさせてもらいたいと思ったことは自分の人生の中ではありませんでした。

人間は色々な理由があって仕事をしているのだと思います。でも、長く仕事を続けていると、働くのが当たり前なこととなってしまい、特に意識するわけでもなく日々淡々とこなしてゆく、少なくとも私自身はそんな感じでした。しかし開業後、本当に仕事がしたい、させてもらいたい、そんな気持ちがかなり強く、でも当時の状況の中で、何をどうしたら良いのか答えも出せず、何か行動を起こすべきではないのか、色々な迷いがありましたが結局良い考えなど浮かぶはずもなく、ただただ1日という時間がどんどん過ぎてゆくだけでした。しかも、家族の反対を押し切っての開業という行動が自分の首を締め、誰にも文句も愚痴もこぼせない状況の中で、人間は冷静な判断なんてきっとできないんだと思います。きっと当時の私もそうだったと思います。

仕事をさせてもらえる、仕事をしているということがどれだけ幸せなことなのかを皆さんは考えたことがありますか?少なくとも会社員だった頃の自分は考えたこともありませんでした。自分の人生の中で、おそらく一番の「どん底」だった時代、きっとあれは神様が、最初からうまくいってしまえば途中でこいつは手を抜いて、楽をすることを覚えるだろうということで与えてくれた試練だったのだろうと今は考えています。

開業4ヶ月目、体に異変が・・・

開業した時に先生に言った言葉をふと思い出しました。自分は、先生の技術は自分の地元でもきっと必要とされる、そう思って、自信を持って開業したはず。それであれば数分でしたが1ヶ月間、無料で提供してみよう。それで気に入ってくれればまた来てくれるだろうし、そうでなければ自分はここまでだろうと、そんな気持ちで行いました。また、合間をみてチラシを作って配ってみようと考えていましたが、どうしても忘れっぽい性格なもので、最終的にはチラシを作るのも配ろうとしていたことも忘れており、結局何にもしませんでした(^_^;)

開業後3ヶ月目、1ヶ月の予約が60名ほどまで増えて下さり、4ヶ月目で100名を超えました。これは自宅出張が増えた為で、当時ガソリンを入れることが満足にできず、体の調子が悪いけどガソリンがないから来院できない、だから家に来てもらえないか?という問い合わせが急激に増えました。もちろん私自身もガソリンを入れることができませんでしたが、できる限りまわろうと思い、各家庭へ伺わせて頂きました。そんな時、友人や高速道路の臨時作業員だった時の同僚が、「ガソリンがなくて困っていないか?タンクに調達してきてやるからすぐに来い。」と連絡がありました。本当に感謝で涙が止まらず、「もしみんなが痛みや不調で悩んだ時には、俺が面倒をみてやる!」という気持ちでガソリンを買いに行ったことを今でも昨日のように覚えています。

さて自宅出張へ。そこにはお家の方の他に、被災地から避難されてきた親類の方々も多数おられ、多いところで1軒で6名(6時間)ということもありました。その後別なお宅にお邪魔して2名(2時間)というようなことをほぼ半月こなしました。その被災地から避難されてきた方々のお話しは、間近で実際に体験したからこその言葉の重さ、悲しみ、強い念があり、返す言葉がないというのはこういうことを言うんだろうなぁと、ひしひしと感じていましたが、その反面、「沿岸の方々に比べたら、自分なんて住める場所があるだけずっとずっと幸せじゃないか。辛いなんて言っていられない。」と感じたのも事実でした。

ここまでの4ヶ月間、1日も休むことなく無休で仕事をしてきましたが、ある時突然、右目が開かない、激しい頭痛とめまいで立っていられない、意識を保っているのがやっとな状態となってしまい、急遽病院へ。脳外科の先生から「男性にしては珍しい症状だなぁ。女性ホルモンの影響で起きている症状だね。まぁ簡単に言えば過労とストレスだな。最近何かストレスを強く感じることはなかった?」と聞かれました。「感じないわけないでしょ(^◇^;)」という感じでしたが、時間外なのに残って診て頂いた先生には感謝感謝でした。そして点滴に繋がれたベッドの上で、知人の薬剤師さんに言われた言葉を思い出しました。「確かに技術的に優れた先生も良い先生だと思うけどさ、いつ行ってもその場所にいてくれて、困った時に診て治してくれる先生も良い先生の条件だと思うよ。」

確かに、「体調を崩していたんじゃ、今日困っている患者様がいるかもしれないのに診て治してあげられないもんなぁ・・・。やっぱり、週に1度だけでも定休日を作ろう。病院や治療院は水曜日休診とか水曜日の午後から休診というところが多いから、水曜日に体が辛くなった患者様は大変だろうな・・・。それなら俺が1日ずらせば良いか。」と思い、毎週火曜日定休日という今現在の流れが出来上がりました。

どんな先生になりたいですか?

ある方に聞かれたことがあります。この質問に対する答えには正解はないと思います。色々な答えがあって良いと思いますし、全てが正解だと思います。

私は、「あの先生のところに行って治らないのであれば仕方がない。」と言ってもらえるような先生になりたい、そう答えたのを覚えています。いつでも「最後の砦」的な存在でありたいと思っています。その為には解剖学だけではダメなんです。生理学だけでもダメなんです。病理学だけでももちろんダメなんです。全てに精通していなければダメなんだということです。

人間の体は、肉体と精神は連動して体調不良や不調を出します。もちろん肉体的な痛みも、内臓からも、精神的な苦痛も、全てが連動して健康体だからこその健康なんだと思います。どれかひとつでも不調であれば必ず、体のどこかに痛みや様々な症状となって現れます。どんなに時間をかけても良いと思います。長年悩んできた方々の「先生に診てもらえて良かった。ありがとうございます。」という言葉を聞きたい私の自己満足の為に仕事をしているようなもんですから。

痛みのない 明日を迎える そのために

開業当初から考えると、環境や道具など当院も色々と変わりました。しかしその中で唯一変わっていないものがあります。それは、私が開業当初から当院のキャッチコピーに掲げている「痛みのない 明日を迎える そのために」という言葉です。

人間は1分先の未来なんて誰にもわからないことなんです。先のことを考える計画性は確かに大切なことだと思いますが、その日その時を精一杯生きることも同じくらい大切なことだと思います。人間は生まれながらにして死に向かって生きていると言われたりしますが、明日がわからないからこそ、朝起きて生きているということに感謝をして精一杯やれることをその日の内にやるということが大切なんだと思います。

未来は現在の積み重ね、過去は未来の為の糧であるということです。痛みや不調のない未来を迎える為に、私が皆さんに対して今できる最良のことを考える、そういう意味合いがこの言葉の背景にはあります。それともうひとつ。この言葉は開業当初の看板にはありませんでした。開業して看板を出した数日後に、看板に追加された言葉です。

くしくも当院が開業したその日に、多くの方々が命を落としてしまいました。明日を迎えたくても迎えられなかった方々がたくさんいるということ、もしかしたら皆さんが生きている今この時が、震災で亡くなられた誰かの明日だったのかもしれません。

近年、体の不調や病気とは別に、自分自身の手で命を絶ってしまったり、簡単に誰かが誰かを殺してしまう世の中になりました。でももう一度考えてみて下さい。生きたくても生きることができなかった方々が世界中にはたくさんおります。その方々のことを思えば、生きているということが何よりも価値があることだと思いませんか?どうせ生きるなら痛みや苦痛に顔をゆがめて生きるよりも、痛みや苦痛のない、そんな明日を迎えることができますよう願っております。

ちょっとしんみりしてしまいましたが、もちろん今回がブログの最終回ではありませんので、不定期ではありますが今後も少しずつ仕事の合間を見ながら更新して行きたいと思いますので、今後ともぜひよろしくお願い致します。

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